泥中の蓮華~自分なりの言い訳
みなさ~ん、こんにちわぁ!今回も読んで下さって感謝×2です。
私もみなさんのレス(コメント)に本~当~に心を頂き多くを学ばせて頂いています。
心より感謝です。
どんなに瑣細(ささい)でも短文でもよいのでレスお願いします。(心を感じまなびとしたいのでぇ)
今回は“ひと”の思考・感情に付いて気づいたことを投稿します。
私達の『思考活動』の基は『過去』の出来事が大半を占めており、その出来事を処理した『感情』のレッテル貼り(決めつけ)が積み重ねによるクセを生んでいるにすぎません。
なのにこうしたことを『正しい・絶対的』なものと捉えてしまいがちです。
そうしたことによって私達は様々な「感情」(特にネガティブ)を生み出してしまっているのです。
がしかし、このネガティブな感情の殆どは私達が存在しない(今に)ことに対して『不安』を抱き「頭の中で勝手に妄想」して作りあげた空想上の存在への対応が作っているにすぎません。
ようするに『ない』ものに対する「決めつけ」でしかないのです。
こうしたことを理解した上で『客観的』に自らの思考の見張りをする(自分は今こうしたことを頭の中で思考活動していて、そのことでこうした感情の流れになっているため)だけでカナリのネガティブな感情は消えて行きます。
そして「感情が波立つ」ことは『今あることに対する「抵抗」』
『現実を自分のおもうままにコントロールしよう』、『決めつけ』、など「我」(が)であるを自覚しておいて下さいねぇ。
この我についても前述のこともそうですが要は「理想」と云う
『自分の中のもう一人の自分』の求めに応じようとすることで生まれるものであり、今の自分ではありません。
理想そのものが『自分とは違う姿』であってあなたではないものです。
あなたでないものを求めるからこそそこに「無理」が生じ、苦を生むのはある意味当然のことですよねぇ。
そうしたもう一人の自分が主となって本~当~の自分を見るものだからそりゃ~見る目を曇らせ『こんなはずじゃない・こんなはずではなかった』と云うことになりますよ。
ですから『足るを知る』でぇ「理想」ではなく理想像にはなれない。
自分そのものを知らなければならないのです。
ムズカシイことですが自分の「都合」で物事を解釈したりせず、あるがままの事実をあるがままに捉えること!
これまた厄介な感情の流れですがネガティブな中に『倖せ』を作ることがあり、それ故にネガティブな感情を愛すると云うものも私達は持っています。
たとえば大~好きな人に別れを告げられたとしましょう。
そのこと事態はネガティブな出来事ですが……でもその事実(キズついたこと)を基にして他人(ひと)が『優しくしてくれたり』『なぐさめられたり』とした事実はポジティブなものとして捉えます。
さかのぼること子供時代に、ネガティブ性を作れば現実をコントロールでき、欲しいものを手に入れる、ネガティブ性が望ましい状況を引よせる。
または好ましくない状況を一掃するなどを、学びそうしたネガティブがポジティブ性につながることを思考の一部にします。
それ故私達は「不幸な私」を愛し演じるのです。(考えてもみて下さい?!ネガティブ性に何に一つとしてメリットがないと知っていたら私達はネガティブな思考など作りだすはずはないのです)
ですから私達のネガティブ性そのものは「想い込んで作っている“幻”にほかならない」ものなのです。
冷静な時に先ずは客観的に自分の思考の習性やパターンを観察することから始めてみて下さい。
そうすることによって思考活動のクセやパターンが判るはずです。判りさえすればある程度は思考や感情を状況ごとにコントロールすることが出来本~当~の自分としての対処が可能となるのです。
多分?多くの方達が本~当~の自分ではなく『感情』や『思考』といったもう1人の自分に乗っ取られるといったら少し大ゲサカモ知れませんが、
本~当~の自分がもう一人の自分に『おどらされ』て生きているように私にはおもえてしょうがないのです。
(私も少し前まではそうでした!しかしこうした気付きによって今は『ありのまま』の自分をありのままに受けとめ「今」をもう一人の自分とうま~く付き合って生きられるようになりました)
本~当~にダマサレたとおもってこのことをウイ一度ためしてみて下さい。(自分の中の感情・思考を冷静に客観的に捉え感じ見て下さい)
本気(マジ)で人生ガラッと見え方捉え方が変わりますヨ!
ではみな様の倖せやおだやかなに日々を心より祈り願っておりますぅ!
2024.3.5


みなさ~ん、こんにちわぁ!今回も読んで下さって感謝×2です。 私もみなさんのレス(コメント)に本~当~に心を頂き多くを学ばせて頂いています。 心より感謝です。どんなに瑣細(ささい)でも短文でもよいので・・