殺人犯

本当の反省、償い、贖罪とは何なのか?他の人はこの問題にどう向き合っているのだろうか?私は、殺人には償う術はないと思っていますが、それではどのように生きればいいのか、について懊悩しています。 

 殺人者の人生というのは、一部のピースを欠いたジグソーパズルの様なものだと思う。ピースが欠けている以上、完成はありませんが、それでも投げ出すことなく作って行かなければなりません。 

 そして不完全な完成品を眺める度に、空白となったピースに思いを馳せ、忘れる事なく暮らすことこそ、殺人者の人生に必要な日々の行為ではないかと思います。 

 私自身は、今の命は被害者遺族にお借りしているものと考えていますので、生きている限りは、生かされている限りは、自分を何か公の役に立てたいという思いが強いのです。 

 他方、他者の生命については、事件直後は変わりませんでしたが、公判中、服役してから変わりました。当たり前すぎるのですが、尊いものと悟りました。 

 事件直後は反省や償いに対する思索が浅かったと、今はつくづく思います。今が深いとは言いませんが、相手の事や自分がした行為について、当時は心の奥底まで掘り下げていたとは言えなかったです。 

 事件後より自分の過ちに気付き、行為を悔いて反省してきたと考えていましたが、それがまだまだ表層的だったと気付かされました。「何て冷酷な事をしたのか」「無惨な死にかたをさせたのか」と心の内で叫んでいたのです。 

 ナゼ、急にそんな激情にかられたか考えてみましたが、この時に初めて殺される被害者の気持ちを忖度したからだと思います。己の非道と被害者の感じたであろう諸々の感情を考え、心の闇の中に沈んで行きました。 

 相手の恐怖や苦痛が我が事のように伝わって来て、淋しさのなかでこと切れた被害者の哀しみや無念さ、自分のその際の冷酷さ無慈悲さを感じたこと、全身に鳥肌が立ちました。 

  

 殺人犯という立場の私にとって本当の反省や贖罪とは何なのか、ずっと考えて来ましたが、人を殺めるという行為は、どの様な償いをしても命が戻る訳でもなく、御遺族の方々の気持ちを考えましても、赦されることではありません。 

 自分の人生を放棄したとしても、赦されるものではありません。私は厳しく処罰されねばなりません。私の愚かな行為によって、御遺族の方々に多大な苦しみを負わせたことを、心からお詫び致します。残された御遺族の心中が、どれほどの苦しみに満たされているかを想像し、憐憫の情を感じます。 

 正月や五月のGW、盆等、親族が集まる度に遺族が、そこに一緒にいたであろうはずの子の面影を追っている事や、街で同年代であろう人を見る度に、もしあの子が生きていればと哀しみに浸っていることを想像します。被害者の遺品、写真、使っていた部屋、全てが遺族にとって、心の痛みなのではないでしょうか。遺族の心の内では、時間が止まったままの人生なのかもしれません。 

 あの子が好きだった物、よく一緒にしたこと、将来はこうしたいという夢、そんな一切が忘れることなく日常につきまとっていることでしょう。そして反射的に私の事も想い出し、憎しみの炎を燃やしているのです。私は被害者の人生を奪うと同時に、遺族の人生をも奪ってしまいました。 

 少しでも真っ当な人間として残りの人生を過ごすために、積極的に自らの非を悔い、真摯に反省と贖罪に励みたいという気持ちが生じました。 

 人を殺めた以上、完全に善だと言う人生はありませんが、できるギリギリのところまで誠意を尽くしていきたいと決めました。 

 

A140さんの投稿

 

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