楽な方へ楽な方へと歩いて・1

はじめまして私はLB級の刑務所に於いて3度目となる受刑生活を送っている者です。
今年で53才になるのですが、人生の半分以上を(今回出所する時点で) 塀の中ですごしてきて色々な人と出会い、体験してきたことなどを書いてみようとペンを取りました。
私は横浜で生まれ、23才まで育ち、高校を中退し地元でパチンコやスロットなどをしながら夜は飲み歩き、金が無くなると恐喝などの悪さをし日々の生活を送っていました。
このようを日々を送る内にヤクザ者とも知り合い免許を持っていたことから、アルバイトのような形で運転を頼まれポケベルも持たされ、飲み食いや女を抱かせてもらうなどズブズブの関係をとりそのままそこの組員として行動をし三人組に入ったことで、それまで付き合ってきた友人たちが私の元を離れ、それは現在まで続いています。

 私が最初に逮捕されたのは19才の終わりで、弟と一緒にやった恐喝でした。
私は現役だったこともあって少年院に送られ、弟は保護観察処分となり、私が捕まってた間に兄貴分か他の事件で逮捕されてしまい、そのまま脱退した為に私も戻らず、地元を離れ東京の新小岩に知人が住んでたので頼って行き、同じ職場で働きかなりいい感じで頑張ったのですが、この頼って行った人がネタ食い(覚せい剤)で 奥さんや小さな娘もいたので流石に自宅では打てず、何度か私の所で打っては帰えるを繰り返し、それまでに私も1度だけ使用したことがあり、その時は熱が出たのと頭が割れる程の痛みが襲い体に合わないのだと思って、それ以降日手を出さずにいた。
そんな話しもその人にしていたので進められることなくすごしていた。ある夜お互いに酒を飲んでいた勢いで「これは悪い品じゃないからやってみるか」と言われ、元々誘われても断われない私だったのと好奇心の方が勝り「じゃ1回だけ」と言って打ってもらったのです。 


 もしとか、仮にとか、あの時にきっちり断われていれば 、今とは違ったかも知れないとは良く思ったりしていて、何故かと言うとこの1回が体に合ってしまった為 (熱も出ず頭も痛くならず)完全にハマってしまったからです。 この後も何度も私の部屋でネタ食い、その内に自分でも打てるようになったことで、それまでその人がこなければ出来なかったのが、いつどこでどのタイミングでも打てることで生活のリズム当然変わり、仕事に対してもルーズになって、その分金銭面で苦しく、そうなると以前のように恐喝に走り結局仕事も辞め、最終的に恐喝していた相手の家にのり込んで、刃物を出して金を取る事件を起こして逮捕されたのです。
この成人してから初めて捕まるまでの間に、只捕まらなかっただけで、かなりの数の恐喝などをしていて、今思っても遅かれ早かれこうなることは自分でも分かっていたし、少年の頃から立ち直るチャンスもあったのですが、楽な方楽な方へと歩いてきた為今の自分があるのです。

 この事件は最初に恐喝で捕まったのですが、相手方にのり込んでいたのと刃物を出していた所から、罪名が強盗になり、担当刑事からは「心配しなくても間違い無く懲役だ」と言われ、罪名が上がったことで 私も絶対に行くものだと思っていました。
結果から言うとこの時は相手方の親から嘆願書が提出され、被害金額は母が弁済し示談取れた為、求刑5年に対して、懲役3年執行猶予5年保護観察処分5年の判決でした。私からすれば実刑だと思ってたし、助けてくれた母もそのように思ってたらしく、取り合えず帰住地を母の所にしていたのですが、私の両親は父のDVと酒癖の悪さから、私が10才の時に離婚をしていて、私と弟は祖父母(父方)と共に生活をし、母は離婚後にしっかりした人と再婚して子供も2人いたので、私が一緒に暮らすとなるとある程度再婚相手の男性に説明をしなければならず、心苦しかっただろうと今なら思うことが出来て、でも 当時は、そこまで考えて母の気持ちを思い遣ることすら出来ませんでした。 

 只出ることが出来たのだからと、すぐに仕事を見つけトラックでのルート配送(深夜から朝にかけて)をして 半年程は自分で言うのもおかしいけど、本当に真面目に働き、4tウイングの新車を預かるまでになったのです(誰に気を使う必要もなく、自分のペースで働けたから) 。
そんな生活も長くは続かず、たまたま行った風俗で (ソープ)付いた女性と気が合い、店が終わった後に飲みに行き、そのままホテルに泊まり、その後も連絡を取り付き合うようになって私としては、相手の女性にはお金もあるだろし、住んでたマンション(3LDK) を見て心の中でガッツポーズを取った程下心しか無く、但し、そんな素振りなど一切見せずにいて、何度も会う内に様子がおかしいことに気が付き、ロレツが回ってないことや、それなりにお金を持ってるはずなのに身に付けてる物が安物だったり、後から分かったのは、 住んでいた部屋は何ヶ月も家賃を滞納していて、黄金属類 やバッグなどかなりの数が質屋に入れられてて、その金利 にも追われ、それでいて精神的にもかなり弱く眠剤などを服用し、自殺未遂もしていたと。
そんなことを知った時には 遅く、私も彼女を好きになっていて、人に借しているお金があるから、それを取り返してほしいと頼まれ借用書も見せられ(きちんとした物では無かったので無理だと 思ったけど)頼まれたのと、お金がほしかったのとで相手を呼び出し、話をして返済するようにせまり、相手が 渋ったことから、面倒くさくなり脅かして金を取り、その場に彼女もいた為、2人して、恐喝の共犯として、 後に逮捕されたのです

 この時点で私には、3年の弁当があり、実刑が確実となった為に、とうとうかという思いと初犯で5年以上になるのだけは嫌だなぁと思ったのを覚えていて、この時の判決は、2人とも1年 10ヶ月で、彼女の親が示談や弁済をしてくれたので求刑から1年安く、それでも、私の実刑は、4年10ヶ月だ ったから、どうなるのかと(先行きが不安でした。 
この彼女とは執行猶予で彼女が出た後責任を感じたからなのか、帰えるまで待つと言って、彼女の母と2人して面会に訪れ、籍を入れることとし、面会や差し入れなども してくれましたが、元々があのように弱い性格だった ので1年半程も立つと、全く連絡も取れず、彼女の親や 兄姉に手紙を出しても、当然のごとく、返事すら無く 一体、何の為に体を張ったのか分からず、結局ババを引いた形で初めての受刑生活を送ったのです。

 この時の刑の確定日は今でもしっかり覚えていて、阪神淡路大震災のあった当日の朝に確定し、凄く大変なことが起きたと思いこの日だけは忘れられずにいます。
それと、確定後の運動で思わぬ人とバッタリ会い。 (新小岩で一緒に仕事をし、ネタをやっていた人)約2年ぶりの再会がお互いに移送持ちで、短時間の会話だけで 終わり、この人とは、また5年後に今度は意図的に私が会いに行くのですが、その話しは後程にします。
年が25だった為に川越少刑の分類を通り、盛岡少年刑 務所に移送となり、盛岡では、約10ヶ月程生活をしました。 
少刑での生活で感じたのは、子供の集まりのようで、新しく入って来た者に、サラ仕事と言って、舎房内での整理整をさせたり どうでもいいことで揚げ足を取ってみたり、殆どの職員に対して、綽名が付いていたり(デカ吉・ゴリ吉・チビ吉・ルパン・ナッツ・ドラミちゃんなど)そんな所から、子供だと思うようにして、どうせ10ヶ月で他へ移送されるのだからと、かなり我慢もしました。
少刑での出会いで1人だけしっかりした人がいて、総班長をしていて、私と同じ年で同じ神奈川出身 だったこともあって良くしてくれてたし、そんな人が10年後に 殺人事件の被害者になるとは夢にも思わなかったし、 この事件の加害者は、2度目の刑務所で私とも仲の良かった看だったので、ただただ驚いたのを覚えています。 

 26才になると、当時は、残刑によって移送先が決まり (3年以上の場合)長期扱いということで宮城に移送され 何人者、有名人を見ました。
通り魔事件のK(かなり古い) 、大きな組織のヒットマンTとか、他にも沢山いて、あの頃の宮城は称呼番号で長短が分かれていて、4ケタが長期3ケタが短期だったので私が3ケタでしたし、 まず気を付けたことが人と話しをする前に、3ケタか4ケタか確認してから話すようにしていました。 
長期の人からすれば私の刑などションベン刑位に思っていて、残刑を聞かれた時に「後4年ですと」答えたら、「じゃ、すぐだね」と。私からしたらどこがすぐるんだよと思ったけど、ロングの人からしてみたら、そりゃ短いよなと思ったり。
工場によっては、無期の人が多くいると、7人部屋で5人がロングで、その中で無期が3人とか私が1番年下で初犯だったこともあり、同囚の人達から、とても面倒をみて もらったし良いことも悪いことも沢山教えられました。 無期の人とも話しをし、人生の半分以上、刑務所で生活をしていて息子とも音信不通で、もう1度だけでも会いたいと聞き、その時の私は、絶対にこの人のように人生の半分以上をこんな所で生活するのだけは嫌だという気持ちと、初犯で5年だから、次は短いのだったら、楽勝じゃんと、そんな考えを持ったからこそ、この時の無期の人と同じように、人生の半分以上、中にいるんだと思う。

  引受人であった妻とはパンクしてしまった為にその後保護会を希望し何ヶ所も断れら、それでも福島の保護会で、引受が許可となって、中で何度も懲罰をくらってたので 初犯で2ヶ月の仮釈をもらい、5年ぶりに外の空気を吸うことが出来たのです。
保護会には色々なルールがあり、福島は門限が確か9時で所持金も1度全て預け、必要に応じて渡される形で 、仕事も紹介してもらって、休みの時どは会の人と、パチンコ屋にを行ったり、飲酒は禁止だったけど、フィリピンパブに開店と 同時に4~5人で行って、門限前にタクシーで慌てて帰えっ たり、この2ヶ月間を私は自由気儘にすごしてた気がします。
先のことも考えずにいたのですから、保護会を出てから、行く当てもなく、どうするか悩んだ末に頼ったのが、あの新小岩の人で、何日かパチンコ屋などを捜し、また行動を共にするようになったのです。この人(Yさん)は、私以上に何を考えてたのか分からないのですが、ある日突然、中国に行って結婚をしてくると言い、本当に行ってしまい、行く前に私をOさん(オーさん)という人に預け、Oさんの仕事を手伝うようになり、仕事と言って も、ネタの売と、カードなどの詐欺で、このような事をしていれば何れ捕まることも目に見えて分かっていても、毎日日銭が入ってくるのと、パチンコやスロットなどをして、夜は ホテトルを呼んで遊ぶ楽しさに完全に頭が切れていた。

楽な楽な方へ歩いて・2 』に続きます。

 

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