楽な方へ楽な方へと歩いて・2
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この時に出会った女性と2度目の結婚をし、宮城を出所して1年後(結婚後半年)に覚せい剤の所持と使用と詐欺で捕まり、3年の刑で横浜刑務所に送られました。
横浜での務めは最初の内はとても順調に行ってたのですが、またしても妻と離婚することとなり、結局満期で出所し、その時に中で一緒だった神奈川県のA市で組の代行をしていた人が若い衆と一緒に迎えに来てくれていて、このA市で今回の事件を起こし逮捕されるまでの1年半程をすごしてきました。
毎月の集金であったり、新しい店の開拓などをし生活をしてきたのですが、どうしても、地元の人にはこの開拓などで遅れを取ったりする内に、同じ組に居た者から「あるけどやるか」と声が掛かり、私自身やればどうなるか分かってたのに、色々なことでイライラしてた為に断わらず、また手を出したことで、どんどん悪い流れに流されるといった感じでした。
只、どうしようも無い生活を送る中で、先輩にシノギがあるからと連れて行かれたフィリピンパブで働いていた女性と親しくなり(私は頭数で行き、好きに飲み食いしていただけ) お互いにフィーリングが合ったのと、初めから私は全て 過去のことを話し、彼女も国に2人息子がいるとか何ひとつウソなどを付かずにいたことで信用し、私としては2度も離婚をしていたし自分が悪いのは分かっていても裏切られたという気持ちが強かったので、3度目の結婚は する気が無かったというのが付き合い初めの頃に思っていて、初めて私の母に紹介した時にも「本当にこの子(私のこと) でいいのか、不幸になるよ」と彼女に言う程で、それでも一緒に暮らす内に、2人の息子のこともあるし、ビザの問題もあるからと結婚をして逮捕から18年立った今でも、私の帰えりを待っていてくれて感謝しています。
今回の事件は、毎月決まった収入も無く生活が苦しかったのに覚せい剤を使用していたのと、やはりパチンコとスロットが原因で借金で首が回らなくなり、挙げ句の果てに、同じ組に居た人間の借金の保証人となったことで(金利が10日で3割) 追い込まれ、共犯となるMに話をした所、間違い無くそこに入れば現金はあるし、何ならそれ以上の物になると聞き、2人で相談をし、被害者となる高齢の資産家の家に 白昼に堂々とのり込んで行き、現金通帳などを奪い、共犯のMが最初からこの被害者を殺すつもりで行ったので、(個人的に恨みがあった為)手を掛け、逃走し、事件後に奪った通帳と印鑑を使い、銀行から金を下ろしMにも、金を渡し、そのままMはA市を離れたのです。
私はその夜までA市に居て、兄貴分のやっていたサウナに手伝いとして入っていて、見なれないスーツを着たお客が2人、営業時間を聞きそのまま帰えったことで、もしかしたらという思いからネットニュースを見ると、被害者が生きていて(重傷で) それなら、私とMは顔を隠さずに行ったのだから、Mのことを話せば、交友関係からバレると思って、妻を連れて短い逃亡生活を送りました。(事件後、4日目に緊逮される)
緊急逮捕された理由は、横浜駅の地下駐車場に車を預けて妻のビザの件で横浜入管に行き、その後車に 戻った所を、押さえられ、任意同行だったので拒否することも 出来ましたが、マル暴の刑事もその場にいて、俺の顔を立ててくれと言われ、A警察に妻と共に行き、私は取調べ 室で、妻は別室で、それぞれ尋問を受け、まさか妻の所持品まで調べられるとは思ってなかった私は、警察車両の中で私のサイフ(覚せい剤入り)を妻のバッグに入れいくらか安心していました。
何だかんだと3時間程ねばっていた所、突然刑事が入ってきて「何でシャブなんか持ってんだ」と、後から妻に聞くと、 妻は別室でかなり脅かされていたようで、全て荷物をチェックさせなければ2人とも帰えさないとか、妻からすればまさか私のサイフが入ってたことも、まして覚せい剤が中に入ってるなんて知らなかったので、本当に驚いただろうし、サイフを妻が持っていたことから、取り合えず共同所持ということで妻もその場で逮捕されてしまったのです。
この時の妻は妊娠をしていて、予定日まで2ヶ月とせまっており、元から妻は使用をしたこともなく、私自身 させようと思ったこともなかったので刑事にも説明をし、妻の方はそれでも20日間留め置かれ、何の処分も無く釈放され精神的にも辛かったと思うけど、無事に私に取って初めての娘を出産し、現在も大きなケガや病気などもせず学生生活を送っています。
覚せい剤の所持と使用で起訴をされ、本件の罪で再逮捕されたことで、小田原地検から横浜地検に変わり、 単独で行くこととなって、朝からバスに乗って夜帰えるなど1日中掛からず、検事の方から午後の何時からとか 時間の指定で完全に”VIP”待遇でした。
何故横浜に変わったのかと言うと、私が逮捕された 平成17年の1月から有期刑が20年から30年に変わった時で、事件を起こしたのが2月だった為に、少しでも早く20年のオーバーの判例を作りたかったのと、小田原より横浜の方が大きく、裁判を取り扱うことが出来きたからだと、後から弁護士さんに言われ、罪名も強盗殺人未遂と 住居侵入、有印私文書同行使、詐欺、窃盗、覚せい剤所持使用と多く、弁護士さんからは「多分、求刑で数字が出ませんよ」と刑が伸びはしたけど20年の考えで、無期の求刑で判決は17~18年位だと思うと伝えられていた私は、求刑が25年と検事に言われた時に、私に対して出た求刑なのに一瞬誰のことなのか分からなかったと言うのが本音で弁護士さんもかなりあせっていました。
求刑が言い渡された時に思ったことは、「これで娘の成人式には間に合わなくなったのかと」あまりにも身勝手な思いでした。 拘置所に戻ると舎房の担当さんが「大丈夫か?」と心配して来てくれたり、隣接する刑務所から拘置所に移動していた 担当さんも、1年半前に出所したばかりの私が長期の求刑をもらったということで何人もが声を掛けに来て、私からすれば思ってなかった求刑だった分、ショックもありはしましたが、それだけのことをしたのだし、後は判決が どの位になるのかとそのことばかり考えていました。
この拘置所にいる間に少刑で総班長をしていた人が 殺され、しかも加害者は、横浜刑務所で私と同じ工場でとても仲も良く、出所後に酒を飲んだり食事に行ったりした知人で、夕方のニュースで事件を知り、やりきれないなあと。他にも同じ工場だった人が強殺で捕まり、無期をもらって私より先にここGに来ていたり、私の判決は 22年で共犯は20年とお互いに長期となりました。
私がGに移送された平成18年の3月頃は以前に務めた所と比べてもマンガのように行状がゆるく、配役される前の分類教育でも、これでいいのかとこっちが心配になる位、行動訓練をせず、分からないことがあれば、行った先の工場で教えてもらえと言う程でした(今はしっかり教えてる) 。
当時は本当にゆるかったので工場や舎房でも不正が多く、見つかれば調査や懲罰は当たり前でも、私自身もかなりの数の不正をし、何度か懲罰にもなりました。
G刑務所では 職員さんによる不祥事も多く、個人情報を流失したとか、同僚のサイフから現金を盗んだとか、麻雀同行会というの があり金銭が動いたことで賭け麻雀となって、その時に トップになったのが所長だったと、新聞に乗り接待麻雀かよってツッコミを入れたり、他にも色々あり、 Gってスゲー所だなあと思いました。
後私が感じたのは、やはり、再犯率の高さで、宮城で一緒 (同じ工場)になったことのある人が3人と、それ以外にも同時期に居た人などが何人もGに来ていて、LBからLB と続けてロングとなったりしていて出所後にどれだけ 更生するのがむずかしいのか実感もしました。
この16年の間には、とても仲良くしてくれていた人が亡くなってしまったり、出所後にまた事件を起こしたとか) つい先日も、給付金詐欺で新入の時にお世話になった人が逮捕されたというニュースを見て、コロナ禍で 社会で生活をしてる人達がどれだけ大変なのかが少しだけど分かり、1日も早く終束してほしいと思いました。
出所後の事件と言えばNという奴も居て、同じようなことを少年の頃から何度もしている奴で(女の子に対する 犯罪)私に娘が居ると言う話しになった時に、このNが「じゃ、自分が出る頃には丁度いい」とか、本人は冗談で言ったつもりなのかも知れないけど、私からしたら、実際に何度もやってきていたし「出たらまたやる」と完全に病気だろとしか思えず、その後相手にしなかったのですが、周りから聞いた所、本などもそっち系しか買ってなかったと 。そんなNが悪い意味での有言実行をしたと知った時に本当にやりやがったと思ったのと、この先も出たら、ヤルんだろうなと。ただロングのはずなので70近くになるから、どうかなあと思うのです。
もう1人得に印象に残ってる人が居て、この人はまだGに居るのでイニシャルトークは出来ませんが、この人程勘繰りが激しく前評判通りだった人を今まで見たことがなく、どれだけ仲良く話しをしていても、何が気に入らないのか、後から「俺に何かあるのか」とか、挨拶もせずにシカトしたとか、言われる側からすれば、全く何も無く、心の中ではこの馬鹿は 何を言ってんだと、この人が工場にいる間に私も含めて他にも何人かがエジキとなり、中にはそれが嫌で 工場を出て行ってしまった人もいて、もう2度と同じ工場にはなりたくないのと、今まで出会った同因の中で最狂、最凶な人だから、人ごとだけど、残りは昼夜独居でお願いだから生活してって感じです。
過去の事をこれまで書いてきましたが、現在の私は 今年の5月に初めてとなる5年無事故をもらい、12月で 6年目を今のままなら迎えられそうで、それもこれも周りの仲間に支えてもらっているからだし、得にサユリさんと交流をしているイケメンズの1人(バディー)には何度も助けてもらったりしていて、こうしてプリズンライターズに投稿をしたのも、バディーとの会話からの流れからで、まさか自分でもここまで長くなるとは思ってなかったし、たまたま、コロナで作業が停止となり、考える時間があったから投稿をしました。
今年に入って1月25日から6月1日までと、7月13日から8月 27日、現在まで作業も無く、とうとう私の工場からも感染者が出て(多分入浴場で?)いつまで長引くのか分からず精神的にもキツイですが、それは私だけじゃないし、全受刑者にとっても同じことだからと前向きに考え 乗りきって行きます。
最後まで読んでくださった方には感謝します。ありがとうございました。
令和4年8月27日