〝ヤクザとカタギ〟の生き方
私が社会で生活していた頃、楽をして金銭を手にしようと他に依存し、自分で働くということをないがしろにして、犯罪思考から暴力団思考へと移行しました。そして自分の将来を真剣に見つめられない情けない生き方となり、社会ルールを無視した無知による所為で、取り返しのつかない多大なご迷惑と深い心の傷を、多数の方々に生じさせてしまいました。
現在、その償いと自己反省、意識改善の受刑生活中である自分が〝プリズンライターズ〟を介して、社会で生活し生きておられる方々と接点が頂けるチャンスに恵まれたことを、素直に嬉しく心から感謝の念で一杯です。
これまで、自分の生い立ちを見つめ、様々な本と出会い、受刑生活での体験値を通し、学ぶことが多くありました。その中の一つに、〝生き方〟に対する残りの人生を真剣に見据えた自分なりの心得えがあります。
その事をお伝えさせて頂く前に、この拙文を読んでおられる方々に、社会生活上における人の生き方を、もし〝ヤクザとカタギ〟の二つに分類したとしての、自分の考えを書かせて頂きたく思います。
社会で生活しておられる一般の方々が、〝カタギ〟と〝ヤクザ〟の生き方の認識に若干の誤解があるのでは?と、これまで本・雑誌・新聞等の活字やニュース報道を読んだり、見たりして、個人的に感じさせられた一つです。
まず〝ヤクザ〟を分類しますと、〝ヤクザ〟〝暴力団〟〝グレン隊やギャング〟(私が社会で生活していた頃に〝半グレ〟という存在などなく、その実体をよく知りません。小説やつまらない雑誌、そして表面的な事しか伝えないTV報道等でしか知らず、文章表現のしようがありませんが、多分、当時のグレン隊やギャングに似通ったもの、という程度しか知りません。私もグレン隊やギャング的な生き方でした)と大雑把にこの三つになっていると思っています。更に大雑把な書き方になりますが、この三つの共通項となっている〝求めるモノ〟の手段の相違から、巷で言うところの〝ヤクザ〟の生き方への認識に、第三者的な都合で意図的な誤解を生じさせられた過去があるように思えます。
〝ヤクザ〟の生き方は、本来一般の方々をシノギの対象として見ていないと思えます。その危険に伴うだけのシノギにならない事を熟知しているし、本物のヤクザなら、その対面にかかわる〝恥〟の部分と拘りが必ず伴っているものとも思えるからです。ですが、カタギの方が、他の力を頼り、力対力という状況にすると、そこに対面(メンツ)等の拘りが生じて話がややこしくなります。事務所の立ち退き問題が悪い例です。
カタギの方々が、カタギの生き方として筋道を通して接してこられたら、本物のヤクザなら勝ち目がない自らの立場を熟知していると思います。
それでは、〝ヤクザ〟がいうところの一般の人(カタギ)とはどのような人々なのでしょう?とここで〝カタギ〟の分類としたいのですが、詳細は紙上に限りがあり、拙文では無理がありますが、単純にタバコを売ったりダイコン等々を売り、そこから何十円、何百円の利益を上げ、その上で税金を納めておられる方々であり、労働に相応又はそれ以下の収入を得て生きている方々のことだと思えます。ですが、タバコ屋が麻薬を売っていたり、八百屋が故買(注)で仕入れた野菜等を売っていたり、喫茶店に違法のポーカーゲーム機を置いていたら、それはもう〝カタギ〟とはいえず、求めているモノの手段がヤクザと同様になり、既にヤクザな生き方に足を踏み入れているので、ヤクザはそれを見逃してはいけない対面が生じています。
カタギの方々が、求めるモノの手段としてヤクザな生き方をしている者を、どのように認識するか?できるのか!ですが、本物のヤクザはその分類に対して厳しい筋道があり、極端ですが、政治家、銀行、金融系、ゼネコン企業等々において、求めるモノの手段で、ヤクザな生き方をしている存在があることは事実であり、それらが個々となりましたらその膨大さに思考が追いつかないと思います。
〝カタギ〟として法に守られていながらも、その法をうまく掻潜り、求めるモノを手にするヤクザな生き方をしている者を、本物のヤクザは同じ土俵に上がった者としてシノギの対象として見据えます。
その対象の認識と捉え方に誤解と相違で、本物のヤクザも暴力団同様に悪としか見えない、ややこしい部分もあります。しかし、ヤクザは求めるモノの手段として、厳しい筋道と暗黙のルールが存在していますが、暴力団は求めるモノに対して手段を選ばず、極端な話、求めるモノの為なら子供たちにさえ、平気で麻薬を売り、広めたりします。
本物のヤクザの生き方を決して肯定する訳ではないですが、日本の文化歴史において、庶民の生活圏や、娯楽発展のほとんどにヤクザが絡んでいた事実があり、そしてマクロ的な経済発展過程の底辺価値観においても、必要悪という存在は、いつの時代でも必ず伴っていた事実があったとも思えます。
ですが、現在の社会生活上においてはどのようになっているのでしょう。社会生活から隔離され三十数年になり、情報に乏しい囹圄の身では、ニュース報道や雑誌等から現在の社会生活上を見つめる一つにもなっておりますが、今の巷で生じている事件等を知る度に、どのように表現していいのかわからない、事件の質というのでしょうか、事件が、外国的なもののように感じてしまいます。
そこで個人的に思うのが、経済発展という利便性を求め、ハード・ソフトという物質的なすさまじい進化に、人々のメンタル的な部分が追いつけず消化不良になり、それに気付かずに日々生活しているのでは?と思えます。そして底辺で生活しておられる本当の弱者がどのような方々で、求めるモノの為ならかまわずないがしろにされているように実感するニュース報道が多過ぎるようです。
私が社会で生活していた頃、人が生きる為に生活してゆく〝生き方〟の中で一番厳しい生活ルール、モラル等についてゆけず、ヤクザ社会に逃げ、そのヤクザ社会でもついてゆけずにグレン隊にまで落ちぶれ、情けない生き方をしていました。ですが、今回の受刑生活で自分の罪過と改善すべき点を素直に認め、残りの人生の生き方を真剣に見つめて、社会から来て社会に復帰してゆく以上は、正業に就いて生活してゆく生き方を心から望むまでに至った今、社会で通用する一般常識的なモラルとルールの更なる向上と維持に務めています。
繰り返しになりますが、社会で生活してゆく中で、一番厳しい〝生き方〟をしているのは〝ヤクザ〟やヤクザな生き方をしている者ではなく、一般の方々である事実を、受刑生活を通じて確信にまで至っています。その詳細を文章表現すれば2~3冊の本が書き上げられるほどです。そしてこれまでの三十数年の中で本物のヤクザに出会えたのはほんの数人もいません。その人たちを単に利用していた輩らの多数であったことに、ホント、うんざりさせられ、それにより自分の〝生き方〟を真剣に見据える人間成長の因の一つにもなっていました。
今は、社会復帰後、普通に生活してゆく生き方を心から望み、その最低限のマナー、ルール、モラルなどを身につける為にこれまで自分との戦いと努めてきました。そして、カタギの生き方の厳しさから逃げた自分が、改めてもう一度その生き方に挑戦し、逃げることなく勝つ自信を持てたので、今回は〝プリズンライターズ〟を通じて意思表示させて頂きました。
紙上限りがあり、文章足らずの部分もありますが、拙い文中、不快を感じさせるようならどうかご容赦下さい。
社会ではコロナ感染も又落ちつきそうですが、どうか、ご自愛願います。
最後になんだかんだと能書きをタレても、インスタントラーメンのうまさを実感できている今の心を決して忘れないこと!だと確信しています。
令和4年3月21日(月)晴れ
注:「故買」顧客から買い取りや交換を求められた品物が盗品であることを知りながら、その品物を買い取りまたは交換する行為のことである。(Wikipediaより)
※上記ボタンをクリックすると決済ページへ移動します。決済方法に関してはこちらをご確認ください。